あの娘 4

かなしそうなくちびるで



桜はとっくに散り、校庭の木々には青い葉が生い茂っている。三年生になって最初の一ヶ月が終わろうとしていた。
誰もいない教室に一人で静かに座る。手持ち無沙汰にささくれをむしる。爪が伸びている。家に帰ったら切ろう。ガラリと教室のドアがあく。終わったよ、次土方さん、と自分の前に面談を終えた女子生徒が呼んでくれる。はあとため息をついてカバンを持つ。教室をでて、重い足取りで廊下の角にある部屋に向かう。ドアを開けるとほのかに絵の具の匂いがする。空き教室を使って行う二者面談に銀八が選んだのは美術室だった。「おう、今日はお前で最後だな。」分厚いファイルを片手に、座って、と銀八が手で合図する。お前は就職希望だったよな、去年の成績をみるとそこそこいいし大学も狙えるけど、内申はがっつり低いな、それはこの出席日数ならしょうがねえとして、まあ家の事情とか色々あるから働くってのも選択肢だよなあ、なんて、銀八が1人で喋り出す。大学の奨学金やら進学についてふれようとするので、高校を出たら働くって決めてるんで、と即答すると、特に驚く風でもなくああそうと返される。学校は来る気あるの、と突然きかれる。高校に入ってからの出席日数は毎年留年ぎりぎりで遅刻も多いので去年なんかは家の事情だなんだを考慮にいれてくれなかったら進級できるか微妙だった。卒業する気はありますとだけ答えると銀八またしてもああそうと返す。興味があるんだかないんだか、ちゃんと考えているんだかいないんだか、一見不安になる。今までの教師は腫れ物に触るかのように自分を扱いおっかなびっくりになるか、暑苦しく共感だの支持だのしようとやっきになりトンチンカンなことをするか、そんなずれてる奴らが多かった。銀八はそんな教師たちとは違った。自分を邪険にするでもなく、近づきすぎるわけでもなく、フワフワふわふわとけむりのように漂ってはふと甘く古臭い香りを広げて、また風に乗って離れて行く。そんなつかみどころのないやつだった。

結局その後は無難な話に終始し15分ほどで面談は終わった。くう、と銀八は背伸びをする。自分の肩をぐっとならし帰ろうと席を立つと、これからちょっと上行かね?一服付き合ってよ、と誘われた。バイトまで時間が空いていたこともあり、断る理由もなかったので一緒に屋上へとついて行った。

柵によりかかりさっそく銀八は煙草を吸い出す。自分も柵に体を預け校庭を眺める。野球部がノックの練習をしている。部員たちの声が響く。銀八がはいた煙が風と共にこちらに流れてくる。「お前さあ、近藤とすげえ仲いいんだな、あのゴリラいつもお前のこと心配してるよ」銀八がポツリと言う。「…幼馴染なんで」と答えると「この間も一緒に鍋やったーとかな、聞いてなくても言ってくんだよ。なんか俺が担任だと不安なのかねえ、心配いりませんってお前からも直接言ってやってくれよ」銀八が心底面倒くさそうに言うものだから、少し小気味よくなる。「近藤さんは誰に対してもそうだから。もう結婚したんだから、周りのことじゃなくて自分のこと考えればいいのにって言ったけど、そんな事言ってもトシはトシだからなあって言われました」言いながら思わずふっと笑みがこぼれる。そうだ、近藤さんは自分が高校生になってからも、まるで幼稚園児の手を引くように自分の世話をしてくれようとしていた。トシ、高校はどうだ?トシ、ちゃんとごはん食べてるか?世話好きな彼のことを時にうっとおしく思うこともあったが、救われた部分が大きかった。
なぜだか銀八が満足そうな顔をして目を細める。「バカ正直なゴリラはおめーが可愛くてしょうがないんだろーな」「そんなことねーよ。近藤さんは志村妙に夢中」「お妙ぇ?あいつの料理食ったことあるか、殺人兵器だぞ、ゴリラも変な女に惚れたもんだよ」「…確かにご飯が美味しいとは聞いたことないかも」志村妙の料理の話題になったとたん青く固まった近藤さんの顔を思い出し、フっと吹き出して笑う。「お前さあ、笑った方がいいよ。」突然銀八が言うので真顔に戻ると「そうそうそれ、いっつも眉間にシワがよってさ瞳孔が開いてんだよ土方は。就職するったってもうちっと愛想よくする必要があるぜ」こんな感じ、と眉間にシワを寄せ、自分の真似をしてくる。余計なお世話だ、とますます眉間のシワを深くすると「…笑顔は可愛いんだから」と銀八が笑う。お前の前で笑ったことなんかねえよと思う。なんだがこっぱずかしくなり顔をみせたくなくて「先に帰る」と屋上を後にした。「なーに恥ずかしがってんだよ」「恥ずかしがってねえよ!」バン、と音を立てて屋上の扉を閉めると、おおーまた明日なあー、と銀八の声がかすかに扉越しに聞こえた。笑顔が可愛い?そんなことお前に言われたくない。そんなこと、何度も言われてきたことだった。誰に?記憶を手繰り寄せる。「トシは笑顔がかわいいから、」ああそうだ、見慣れた顔が浮かんでくる。「トシは笑顔がかわいいから、いろんな男がよってくるだろ。変なやつにひっかかっちゃだめだぞ。」そうだ、近藤さんだ。何度も何度も言われてきた。でもその度思っていた。そんなこと絶対にない。だって、だって。近藤さんと銀八の言葉が入れ替わり立ち替わり何度も頭を回ってしばらく離れなかった。ずきりと心臓が痛くなる。腹の底の一番下の部分に溜まっているどろどろとした塊がかすかに動いた気がした。



ゴールデンウイークもとっくに終わり、新学期の浮ついた雰囲気も無くなって来た頃、土方はそれなりに休まず学校に来ていた。その分、屋上に立ち入ることも多くなり、同時に銀八と顔を合わせることも頻繁だった。銀八はサボりに対して小言を言ってはくるものの無理やり授業に出さそうだとか、そんなことをしてくることもなかったし、この学校の一番高い場所で2人で過ごす時間というものにそれなりに居心地のよさを感じていた。銀八はやる気がなくてだらしなくてどうしようもない教師だと思っていたが、そのゆるさが自分には楽だった。たいていは銀八がくだらないことを言って、自分は無言で聞いていて、おい土方相槌くらいしろ、笑顔はどうしたと銀八が言い返して、そんなとりとめもない話ばかりしていた。銀八の話はだいたいジャンプと食べ物と好きなアナウンサーについてで、特に自分は興味がないことが多かったけれど、銀八も自分に聞いてほしいというよりは、ただ独り言のように延々と吐き出していた。ある日は珍しく銀八が読書をしていて、その本の話をすることもあった。「その作者、知ってる」「これえ?お前渋いの読んでんなあ」「読んではねえけど…叔父が好きだったんで」「そりゃ叔父さんはいい趣味してたな。こいつの書く話はハッピーエンドに見せかけた毒の塊だよ。」「ていうか銀八本なんて読むんだ。ジャンプしか読めないと思ってた」「おい俺一応国語教師だからね、わかってる?」銀八がむすっとするので可笑しくなる。ふふっと笑うと、なめんな、あとで貸してやるから読んでみたまえ、と言ってくる。いやだから家に腐る程あるんで、というと、じゃあそれ来週までに読んで感想文書いて来い、と言う。そんなことがあったもんだからその日は帰ってすぐに叔父の本棚に行き銀八が読んでいたタイトルを探した。叔父はー為五郎さんは、本が好きなひとだった。小さい頃はよく自分にも絵本を読み聞かせてくれた。絵本は棚の一番したに数冊立てかけられており、手に取ると懐かしさがこみ上げてきた。為五郎さんの部屋に入るのは、お葬式の際遺影に使うための写真を探した時以来で久しぶりだった。銀八が読んでいた本を見つける。ペラ、とめくるとほのかに日焼けした紙のにおいがする。銀八からしていた古臭いにおいは、この古本の独特なにおいだったのかもしれないと思う。為五郎さんの自分と繋ぐ手からもよくこのにおいがしていた。為五郎さんがなくなってからは意識的に彼の部屋には立ち入らなかった。胸にポカリとあいた穴が余計に広がってしまいそうで怖かった。銀八のオススメの本は案外確かに面白くて、その日のうちに一気に読み終えてしまった。次の日廊下ですれ違った銀八に、確かに面白かった、感想文は以上、と伝えると、だろ?となぜか自分が書いたかのように誇らしげに笑っていた。
学校にくることは変わらずに息苦しかったが、屋上で銀八と過ごす時間だけはいつのまにか自分にとってささやかな楽しみになっていた。

そんな日々が、一ヶ月ほど続いたある日のことだった。
その日の放課後は屋上に出たもののいつまでたっても銀八がこないことに物足りなさを感じていた。いつもは勝手に喋っててうるさいなと思っていたがいなかったらいなかったで暇だな、と何も考えずに煙草に火をつけた。それが失敗だったのだ。煙が風に乗って広がると、すぐ後ろにある水道の大きなタンクの裏から、「ひっ」と声がした。なんだ、と思い振り返ると、タンクの後ろから薄汚れた白衣をまとい寝ぼけ目をこする銀八が姿を現した。しまった、と思った。「お前やっぱり吸ってたよなあ」銀八がアクビをしながら、自分の人差し指と中指の間に挟まれた煙草をじっと見て言った。

「…退学ですか」どこかで諦めている自分がいながら聞く。「そら、普通なら停学だよ」煙草出してみ、と言われたので素直に差し出すとあ、という間もなく箱ごと回収されてしまった。「…普通ならなア、でもこの場所をお前に提供しちゃったの俺なんだよなあ。…俺もなかなかずるいよな」銀八が続けるので黙って聞く。「最初にかち会ったときからさ、たばこくせえなって思ってはいたんだよ、容認してた俺も俺だな」途端にかあっと顔が熱くなる。確かにポケットに吸殻が入っていればそれなりに距離をとっていても、やっぱりばれてたんだ。妙に恥ずかしくなって何も言えないでいると銀八は取りあげた煙草の箱をぽん、ぽんとお手玉する。「この場所はさあ、学校だけど学校じゃなくて、俺のプライバシー?プライスレス?あれ?なんだっけあれ、」「…プライベートですか」「そうそう、プライベートゾーンだったのよ、ここでは、教師じゃないつもりだったのよ、だからなんていうか堅苦しいことしたくないんだよこの場所でさ。土方と話してんの楽しいし、でもまあお前の目の前で俺はすぱすぱ吸ってたわけだしなー。」しばらく沈黙が続く。銀八の言葉を待つ。「まあ、とりあえず今みたことは上には言いません」その言葉を聞いてほっとする。「…サボりも喫煙も容認してくれるんですか」なんとなくそのまま引き下がるのも癪だった。「容認なんてしてねーよ。勘違いすんな。教師じゃない俺から見てもさ、お前女の子だしまだ二十歳じゃないし、吸わないで欲しいなとは思うよ。でも土方がここで俺の煙草付き合ってくれたりくだらねー話できる時間は俺は好きだよ、だからもう来んなとは言いたくないかな、正直。」銀八が珍しくまっすぐに目を見つめてそんなことを言ってくるので思わず足元に視線をそらす。なにか言おうとしたが言葉が出て来ない。「…まあなんだ、代わりにここでは、これ舐めなさい。あげるから。」おもむろに白衣のポケットからチュッパチャプスを取り出し差し出してくる。コーラ味だけとろうとすると、いーよ全部で、と五、六本手ににぎらせてくる。「ここではそれで我慢な」なんていうもんだから素直にチュッパチャプスを舌で転がした。
「…銀八あんなところでなにしてたんだよ。あんな薄汚いタンクの裏で」「あったかくなってきたから昼寝。」沈黙。いつもなら甘くて吐きそうになるチュッパチャプスがなぜか苦い。「……タバコ吸ってたの、がっかりした?」耐えられず聞く。「うん?うーん。がっかりっていうか…。」紫煙を吐き出す。
「…煙草なんて寂しいやつが吸うもんだよ」銀八が遠くを見つめて答える。
(…寂しい)自分の心の一番底にどしりと沈んでいる真っ黒な塊の表面が乾いて、ぴしりとヒビが入る音がした。でも蓋をする。かわりに銀八に意識を向ける。「じゃあ銀八は寂しいんだ。」「俺は別。医者にすすめられてんだよ。これ以上甘いもん食うと糖尿まっしぐらだからよ、死にたくなけりゃかわりに煙草でもすって気を紛らわせなさいってな。」相変わらず冗談だか本気だか分からないことを銀八言い出すので、思わず頬が緩んだ。ほのかにコーラの味が舌にしみた。











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2013/11/10





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