午前2時のあれやそれ





土方には彼女がいる。付き合って二年ほどになる小柄の彼女がいる。職場で出会った年下の女の子だ。ちょっとした愚痴を言い合うこともあったが、大きな喧嘩はなかった。可もなく不可もなく、彼曰く“適度に”、彼女とは付き合っていた。

山崎には彼女がいない。山崎は一か月前に、五年付き合った彼女と別れた。年も年だし、相手はどうやら結婚も考えていたらしいが、しかし別れた。

二人は今漫画喫茶にいる。夜中の二時である。


仕事終わりの、”華の金曜日”とうたわれる夜だった。新宿のいつものしけた居酒屋でぐずぐずと飲んでいたら、いつの間にか(正確なところお互いそれなりに分かっていたが)終電が無くなっていた。こうなってしまうとタクシーで帰るのがいつもの流れだったが、その日は何となくこのまま朝までいくかという流れになり、居酒屋をあとにした。

酒で火照った体には、冷えた外の空気が少しだけ染みた。同じように、金曜の夜を謳歌する人混みの間をすりぬけながら、新宿の街を歩く。

「土方さん、もう一軒どこ行きます?」
山崎は歩きながら尋ねた。
「もう一軒はいい。漫画喫茶に行こう。」
土方の口から思わぬ単語がでたので、山崎は足を止める。
「…まんがきっさ…?」
「お前眠そうだし。」
そういう土方が、く、と小さくあくびをかみころしたのを山崎は見逃さなかった。
「…土方さん、寝たいんですね?」
「俺?寝たくねえよ。漫画が読みてぇんだよ。」
土方は山崎を見ずにのそりのそりと歩いている。
「寝るならもうタクシーで帰りましょうよ。」
「だよな、とりあえず漫喫行くか。」
だめだ、日本語が通じない、と山崎はため息をつく。
「俺、金おろしてもいいっすか。」
「おう。」

コンビニに寄り、山崎が金をおろすのを待つ間、土方は煙草に火をつけ一服する。大の大人が男二人、漫画喫茶で一晩を越すなんてしけている。先ほどの居酒屋で出てきた三百六十円のシナシナに焼かれたししゃもより、しけている。ここからお互い逆方向でタクシーに四十分ほど乗り、帰って寝た方が安眠は得られる。そんなこと分かり切っていた。
分かり切ってはいたが、土方はしない。家に帰ればもしかしたら彼女の温もりが待っているかもしれないこともわかっていたが、土方はそれに価値を見出せなかった。そして土方は、山崎が自分の誘いを断らないことを知っていた。山崎の部屋には山崎以外の体温がないことを、土方は知っていた。

「もう、寝たいなら寝たいって言ってくださいよ。もはやラブホテルでも行きますか?」
財布を鞄にしまいながら、山崎がコンビニから出てきた。
「ラブホだあ?そんなとこ行くわけねえだろ、アホか。」
煙草を灰皿にぐりぐりと押しつけると同時に、土方は山崎の意見をバッサリと却下する。山崎はそれ以上土方に口出しするのをやめた。もうこうなったら彼に何を言っても無駄だと分かっていた。





「ナイトパック、二人で。」

前払いの会計を済ませ、店員が勝手に選択したペアシートに入る。深夜の漫画喫茶とは奇妙な空間だ。頭上でうっすらとクラシック音楽が漂い、簡素な壁で仕切られた部屋のあちらこちらから人の気配を感じるものの、店全体は何とも言えない静寂につつまれている。喉にへばりつく空気が驚くほど乾燥していた。

土方は適当に五冊の漫画本を持ってきて机の上にどさりと詰んだ。スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩め、また煙草に火をともす。山崎はドリンクバーからコーラとジンジャーエールとホットココアをよそってきて、小さな机の上の灰皿の隣に、コトリと置いた。

「あ、これマガジンでやってるやつですね。なんかアニメ化したっていう。」
土方が持ってきた漫画の表紙をみて、山崎は言う。土方はまるで興味がないかのようにうつむいたまま、「そうだな」と返した。

土方はあぐらをかいて煙草の煙をゆっくりと吐き出しながら、目の前の灰皿をじっと見つめていた。山崎もスーツの上着を脱ぎ壁のハンガーにかけネクタイを緩めた。暫くの沈黙が小さな個室に満ちる。座ってジンジャーエールを飲みながら、さてどうしようかと山崎は考えていた。その隣で、煙草を乱雑に灰皿へと押し付けたかと思うと、土方はいきなり横になった。

「よし、寝るか。」
土方はそう言ってゴソゴソと、いつの間にか受付から持って来ていたブランケットを体にかける。
「エッ、寝るんですか。」
山崎はそんな彼を見て思わず目を丸くした。
「うん寝る、ねみいもん。」
土方はそれきり山崎に背中を向け、顔を壁に向けながら静かに目を閉じた。
山崎は、取り残されたように机の上に積まれた、手付かずの漫画を見た。ため息をつく。この五冊の漫画は土方の言い訳だろう。山崎はせめてその言い訳が嘘にならないように、彼が部屋に持って来たその漫画の中から一冊を手に取り、ページをめくった。



どのくらいの時間が経っただろうか。なんとなく手にした漫画は思いのほか面白く、山崎が二冊目に手を伸ばそうとした時だった。土方がごろりと寝返りをうち、山崎の方に顔をむけた。それまで死んだように寝ていた彼が突然動いたので、山崎は驚いた。

「起きたんですか。」
「寝てねえよ。」
うつろな目をして、横になりながら土方は言う。
「いびきかいてましたよ。」
「うそだろ。」
「ウソです。」
「ふざけんなよ。」
「でもよだれついてますよ。」
「うそ?」
「ウソです。」
土方は寝ながら、目の前にある山崎の太腿をスパンと叩いた。思いのほか乾いた音が店内にきれいに響いてしまったので、二人は、クッ、と声がもれないよう堪えながら笑った。

「彼女さんには今日帰らないって連絡したんですか。」
「してねえ。」
「しなくていいんですか?」
「いいんじゃねえの。」
「えー、寂しがりますよ?」
「そんなことねえよ。」
「そうかなあ。」
「それよりお前はどうなんだ。」
土方は横になったまま、ちらりと黒目だけを上に向け、山崎をみた。
「どうって何がですか。」
「女。彼女と別れたばっかだろ。」
「もうなんにもないです。干からびてますよ。」
そう言って山崎は掠れた声で、笑いになりそこねた声を出す。
「お前、すごいショック受けてたもんなあ。もう立ち直ったわけ?」
「立ち直ってないですよ。毎晩泣いてます。」
「うそつけ。」
「ウソです。」
土方はまた、山崎の太腿をパシンと叩こうとしたが、山崎が今度はすばやく身をかわしたため、土方の手は空を切った。それがなんだかとてもかっこ悪くて、二人ともまた、クフ、と笑いを噛み殺した。

「土方さんは彼女さんと結婚しないんですか。」
「なんで。」
「だってもう付き合って長いじゃないですか。年齢的にもちょうどいい時期ですし。」
「結婚とか考えらんねえよ。」
「彼女さんには、言われないんですか。」
「言われねえ。なんにも言われねえ。」
「それきっと土方さんが“話題に出すな”オーラ出してるからですよ。」
「出してねえよ。」
「俺の前付き合ってたコは、しょっちゅう結婚結婚言ってましたけどね。」
「ああ、そんなことお前言ってたな。で、面倒になって別れたんだろ。」
「そんなことないですよ。俺も結婚してもいいかなとか思ってましたよ、これでも。」
「お前の稼ぎで?」
「それ土方さんが言っちゃダメでしょう。そりゃあ土方さんほど稼いでないですけど。」
「ってか働いてねーじゃんお前。ヒモだったじゃん。」
「働いてます。」
「エロビデオ屋で?」
「アダルトグッズ屋です。」
土方は山崎の太腿をスパコーンと叩いた。三度目にして見事に一番大きな音が、乾いた店内の空気の中を響き渡り、とうとう二人はブフウ、と噴き出した。土方は口元を腕で覆い、必死に声が漏れるのをおさえながら肩を揺らす。なぜか涙目になってくる。山崎も笑いをこらえすぎて「んぐうっ」と変な音が喉から漏れた。

「ふふっ、そういえばあれ、この間飲んだ時に土方さんの鞄の中に入れたヤツどうなりました?結局帰りまで土方さん気づいてなくって、俺も入れたの忘れちゃったやつ。」

ひとしきり笑い終わった後、山崎はふと土方に尋ねたが、それがまた引き金となる。
「えっ、フフッ、アレお前だったのかよ!あれだろ、クソみてぇなぐろい、イボイボついたバイブだろ?なのにそのくせすげえ小さくて、どこに入れんだよ!みたいなやつ。クックククク。」
「くっ・・・・!それです、それ。ふふふっ。店の余りもんだったんでもらってね、ふふ、俺あんなの使わないからって土方さんがトイレ行ってる間にね、鞄に入れたんですよ。」
「おまっ・・・、ふざけんなよお前、アレなぁ、結局彼女に見つかってすげえ問い詰められたんだよ。俺は身に覚えねえし本当に焦ったっつうのにお前、本当にふざけんなよ。ふっ、ふざけ、ふふふ。」
土方は肩を揺らし体を丸めながら山崎に言う。静かな店内に、二人のこらえきれない笑い声が漏れた。深夜の笑いの沸点はどこかおかしい。夜だからという理由だけではないのだろうが。

「ククククッ・・・・・、はあー・・。」と、土方は寝たままあおむけになり、口を覆うように顔の上で手を組み深呼吸した。山崎も漫画をテーブルに起き、引き攣って痛くなった腹筋を休めようと、ホットココアに手を伸ばす。
「あーだめだ、俺は眠いんだよ。俺は寝るぞ。てめえ笑わすんじゃねえぞ。」
土方は再び目を閉じて、しかし今度は山崎の方を向いて寝始める。山崎はもう冷めかけたホットココアをずずず、とすすりながら、体育座りで隣の土方を見降ろす。閉じた目から生えるまつ毛はきれいに黒く、長い。山崎は目がさえてしまい、今更眠る気にもなれなかったが、すうすうと静かに息をする彼の顔をもっと近くで見たくなり、カップを机に置くと同じように横になった。仮にもここは漫画喫茶である。二人して横になると、目の前の彼との距離は、山崎が思っていたものより随分近かった。

しばしの静寂が二人のいる個室に流れる。ときどき隣だか向かいだか知らないが、どこかの部屋から「クシュン」とくしゃみの音が聞こえてくる。ブオンブオンと換気扇だかエアコンだか分からない一定の機械音が天井近くで響いている。

山崎も目を閉じる。土方は本当に寝たのだろうかと思いながら目を閉じる。多分寝てないだろうと思う。彼はこういう時に寝られる人ではないと山崎は知っていた。彼は卑怯で不器用で少しだけ寂しがり屋なのだと、自惚れのように山崎は思う。ほんの少しの期待を込めて、山崎も寝た振りをした。まるで修学旅行の夜のようだと思ったが、それもなんだか違った。





「寝たのか」





しばらくぼうっとしていたところで、隣の土方がぽつりと言った。山崎は、やはりな、とにやけた。


「寝てませんよ」


聞こえるか聞こえないかの微かな声で返答した。片目だけあけ、土方の顔をちらりと見てみると、土方は両目を少しだけ開けて、天井を見ていた。山崎は気づかないふりをして、再び両目を閉じた。

もぞもぞと衣擦れの音が聞こえる。

「山崎」

動きが止まったと思えば、一層低い微かで小さな声がし、山崎は再度うっすらと目を開ける。土方は天井を見ながら、ブランケットから左手だけをだし、山崎に差し出していた。

「ん」

土方はそれだけ言う。「えっ」と山崎が土方の方に顔を向け様子をうかがうと、土方はこちらもみずに「手」とだけ言ってくる。山崎は「ふふ」と口も開けずに笑い、右腕をずらし差し出された土方の左手を、軽く握った。土方は山崎の手の温もりを察知すると、それぞれの指と指が、一本ずつ絡まるように繋ぎ直し、ぎゅ、ぎゅ、と二回、強く手を握ってきた。

「いいんですか」

山崎も土方から顔をそむけ、天井に聞く。土方の返答はない。

少し体をずらす。土方が一人でかけていたブランケットをひっぱり、自分の体にも届くようかけ直そうとした。

「うーん」

すると土方はすこし唸って、手をぱっと離した。

「やっぱだめだな。やめとこ。」

土方はむくりと起きあがって、山崎が手をかけていたブランケットを引っ張り、元に戻した。そうして、足元にあった黒い鞄を、二人の間にドスッと置いた。

「A.T.フィールドってやつ?」

土方はそういって笑って、また何事もなかったかのように山崎に背を向け寝始めた。

「ええ〜、土方さん。」

聞きかじったアニメの用語を出してくる土方に少しいらっとしたし、何よりこれではますます狭いと、山崎は二人の間に隔たる鞄をどかそうとするが、土方は「だめだ」とそれを許さなかった。土方が山崎の方に顔を向けることは、もうなかった。

ちえっ、と心の中で山崎は舌打ちする。所詮彼は、卑怯で不器用で寂しがり屋で、しかし臆病で情けない男なのだ。すぐに揺れるくせに、寸止のところで自分から逃げ出す。山崎はもうどうなってもいいというのに、土方にはまだ怖いようだった。山崎はしょうがないなと、土方の背中に顔を向けながら、今度こそ眠りについた。

相変わらず空気は驚くほどからからに乾いている。明日起きた時には、のどが痛くなっているかもしれない。ちらりと時計を確認すると、いつのまにか針は4時半をさしていた。

山崎は、ふう、と大きく息を吸い、吐きだした。そうして目を閉じ、乾いた空気の中に身を委ねた。
始発はもうすぐだった。







2014/11/14



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